昭和四十七年五月十二日 朝の御理解
X御神訓 道教えの大綱 「今月今日で一心に頼め。おかげは和賀心にあり。」
信心を段々頂くようちなって、信心が少しわかりだしてくるとわからない事が、必ず出てくる。しかもそのわからない事は、もう限りがないようである。信心を進めていけばいく程わからない事が出てくる。多くなってくる。きりがない。
ですからきりがない程、おかげが受けられるという事になります。お道の信心は。 だから、そういう信心の軌道というものに乗らなければね、お互い何十年信心しとっても駄目です。いくら金光様信心しよりますといわれたっちゃ。
いよいよわからん事が出来てくる。出来てくるから、いよいよ稽古をさせて貰わねばおられんのですから、わかればわかる程、有難とうなってくるのですからね。有難くなってくればくる程、おかげがそれに伴うてくるのだからね。
ですから、参るとか拝むとかいうひとつの、そういう信心過程というものもあるわけですけれども、信心がわかると言う事。
一番間違いなくこれはもう絶対のものだと、私がわかっている事は、今日の御理解の今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にありという事です。これはもう、いよいよ絶対のもの。そこで和賀心になるという事、どうぞ私の心の中に、和らぎ賀ぶ心を頂かして下さいというて願う事もよいけれど、願うたからというて頂けるもんじゃないという事。
先日から頂きますように、今の心、これを合わせると念、だからその今思うておる事その事を願うていく事、そこへこういう思いじゃいけないな、こんな行いじゃいけないなという事になる。今、思うている事言うておる事、それう正していくというわけなんです。それを祈っていくというわけなんです。
それはどういう事かというと、今月今日で一心に頼めおかげは和賀心にありという和賀心を願うていくわけなんですけれども、ああ、こんな事じゃいけないと思い替えをする位なら出来ますけれども、和賀心がそれで与えられるという事はない。
そこで私共はこの和賀心を求めさせて頂く。もうこの和賀心になっていくに従って広くなるに従っておかげは広く、深くなればおかげも深くなっていくと、これだけでは、私の信心体験でもう絶対のものというところまでおかげ頂いておる。
これがね、もう絶対のものだとわからんとね、これに精進しょうとしないです。ごまかそうとする。そげん和賀心にならんでんお願いをしておかげ頂くという事実もあるから、どうもすみません、よろしくお願いしますと、電話かけたっちゃおかげ頂くのだから。それこそここと横浜と離れとったっちゃです、もう、それこそ医者が助からんという病人が、吉井の波多野さんの兄嫁に当たられる人ですがね。
先月十日の月次祭にわざわざ横浜からお礼参拝した。しかもお礼参拝ですからそれをさせて頂いら真っ直ぐに帰るという一途にその事をおかげと感じるからこそ、そういう事が出来るのです。
折角お礼参拝に見えたのですから、今晩は月次祭であるからというので、まあお月次祭を頂いて、一晩泊まって、又明くる日ここへ参拝させて頂いて帰られた。
横浜から波多野さんへ手紙でお願いされて、そして又、こちらからもおかげの泉なんかを送らせて頂くという具合だった。病気が治っただけじゃなかった。それこそ、おかげを頂いて、私の今度の病気を境に一家中が円満になったと言うておられる。
第一、嫁が大変優しい嫁になったという事、それは私がおかげで角が落ちたからとこう言うておられます。
今までは自分に角のある事も知らなかった。教えを頂けば頂く程、自分のやはり心の角で自分自身が苦しんでおった。結局、そういう医者が助からんという病気にまでなった。おかげを頂いて、その事に一生懸命精進させて頂いたら、家族中の者がおかげ頂いて、もう全然信心のない息子までが、お母さん神様はまだあるよというような奇跡的なおかげを頂いたというお礼お届けがあった。
ですからそういう例えば、和賀心に焦点を置かなくてもです、おかげを頂くものですから、私共の場合それが何十年続いたのですけれども、いよいよこういう信心ではいけないと気づかして頂いて、はじめて取り組んだのが結局和賀心。
これは和賀心という事ではなかったですけれども、問題はですね、もう本当の、本気で親孝行したい一念が、私の信心の一つの情熱になった。そこに期せずして頂いたのが和賀心であったという事です。
そこで和賀心になる事の楽しみというのは、いよいよ募ってきた。そして親がもっと本当の親、もっと本当の親というその本当のものを求めていけばいく程、その和賀心はいうなら、高度なものにいわゆる上昇していった。
ですから、どうぞ、和賀心になる事を頼むという事はねえ、やはり教えを頂いて、神様に喜んで頂けるという信心とか、心の状態にならなければ、和賀心は与えられないもんだという事がわかります。どうぞ、和賀心にならせて下さいといったっちゃなれない。
昨日、森部の高山さんのところの謝恩祭でした。もう本当にそれは有難いおめでたいというか、そういうお祭りでした。
もう我が身に持てる真心という歌の文句がありますが、自分の持っておる例えば借金おうてからなんてものじゃない。例えばお祭り仕えるでも・・・それけんで全財産をうちかぶらなんてんものじゃないです。けれども我心に思う心いっぱいの事が出来られたような感じのお祭りでした。
例えばお魚を買いに行くとしますか、もう一番新しいとの一番大きいとからお願いしまといったような感じのお祭りでした。果物買いに行ったらとにかくその果物屋さんで、一番おいしい、一番新しいそれをどうぞ買うてきてくださいという生き方だった。もう、こん位でよかろうというようなものを全然感じませんでした。あそこのお祭りで。そういう思いでこの宅祭はおかげ頂きたいという。まあそれも、御主人が丁度前日まで、病気がはじまるとお酒を沢山のまれる。そしていうなら、棒にも箸にもかからんような状態になってしまわれる。それが前日まで続いた。そしてその前の前日からやすみ疲れて、只、だま-って寝とくばっかり。もう今年のお宅祭は自分の思うごと出来るぞとこう思うたと。今までは主人が言いやせんでん、そげんせんでんお前はというようなのがあるとね、やはりそこに不浄がつくし又自分もこげんせにゃんばってん、主人がこう思うちゃならん。不浄がつちゃならんからといったようなものがあったにちがいない。
ところが、そういうお繰り合わせを頂いとるもんですから、もう今度の宅祭は、自分の思うご-と出来るぞという思いをそこにかけたお祭りという感じでした。
昨日も御祈念のちょっと後に、ここにお礼お届けに見えたのですけれども、もう、親先生、今晩宅祭りを仕えて頂くという事を思うとですね、もう嬉しゅうて嬉しゅうてというのは勿論、嬉しゅうての内容には、有難とうてもあるわけなんです。
皆さんも御承知のように、非常に気丈な方ですからねえ、もう、涙なんて私は見た事がなかったです。昨日ばっかりは嬉しゅうて嬉しゅうてと言うて涙ぽろぽろ流されるんです。今日はお祭りが仕えられる。しかも私の思いいっぱいのお祭りが仕えられると思うたら、もう嬉しゅうて嬉しゅうていう事になっきた。
「先生やっぱ有難とうして有難とうしてと思うとったらやっぱ、嬉しき事がず-っと続きます」と昨日、私はあちらへ参りましたらすぐそれをまちかまえたようにして話されるんですよ。今までそんな男じゃなかったけれども、あの英樹さんの事です、二、三日前、電話がかかってきた「どげなふうにしよるの、お宅祭りが近づいてきたが」と言うてから、そういふうな事は家におる時は言うた事もなかった。それがそのようなふうにして電話をかけてきた。
それでいつものようにしておかげ頂くというたら、速達で丁度ここから帰られたら手紙が来て、これはお祭りの費用に使うてくれというて。まあ、今までは親に心配ぱっかりかけてきた。その為に結局大阪あたりまでも行くといったような事になったんですけれども、あちらにやらせて頂いて、先生、一日もかかさずにおかげ頂いた、そして自分でも親子四人まかのうていけれる自信がついたのが楽しいごたるふうで、もう一生懸命働いている模様でございますというて、その手紙のはし々から、もうとにかく嬉しゅうて嬉しゅうてと思うたら、嬉しい事が必ず続く。これなんかはもう絶対ですよね。
それで私は昨日は、此方の道は、喜びに喜こんで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんというお話をさせて頂いた。それでそんなら教祖様は、そういう喜びに喜こんでの第一人者でおありになったわけですけれどもです、もう、きりがないですね。 教祖様の喜びというのは、御内容というものはは。そんならそういう喜びというものが、どのような、例えば、生き方とか信心から生まれてきておったのだろうかと、こういう事それはどこまでも、教祖の神様が、実意丁寧でおありになったという事。 しかもその上、信心好きでおありになりましたから、もう実意丁寧神信心がお出来になったからという事。実意丁寧神信心になられたところからです、わがままな心がない。横着な心がない。もうよかよかといったようなものがない。
実意丁寧とは真心、それをしかも丁寧に表していかれた。教祖様の御一生というのもは、実意丁寧な事ばかりであります。
上納を納められるのに、今年はよう出来たからというてそれだけの分は持って行っておられる。そういういわゆる生きられ方なんです。それが神様のお喜びをかわれないはずはなかった。そこにそんなら期せずして喜びが教祖の心の中にその実意丁寧神信心の代償としてです、心の上にいよいよ深いものになってきたという事。
ですから今月今日で一心に頼めとおっしゃる和賀心というのは、只、今日もどうぞ和賀心になりますようにと、ですからその和賀心にならせて頂く、どうぞどうぞと言うて願うたからと言うて和賀心になるという事ではない。
只、自分のそういう反省にはなりましょう。こげな事は、こういう心は和賀心とは全然反対の心、こげなこつじゃおかげ頂けんという事はわかる。
けどそんなら和賀心を頂こうという事は、どういう事かというと、高山さんのそれです、もう今度のお宅祭りというお宅祭りはもう自分の思うように出来るという、思いが形に表れた、そこにです、嬉しゅうて嬉しゅうてと、私は高山さんの有難涙をはじめて見た。あれ程皆さんの御承知の通りの熱心な信心をなさいます、もう理解力のあるという事は、もう婦人部の方達の間でも素晴らしいですねえ。ですから信心が日頃どんどんわかっていっておる。そのわかっておる信心を表そうとされた。しかも今度はその表す事に於いて何に差し障りもないという事が、もう嬉しゅうて嬉しゅうてこたえじゃった。そういう例えば我が身に持っておる真心のいっぱしを捧げるところにいうならば、一心の真が捧げるところにです、しかもそれが実意丁寧に表されていくところにです、神様は和賀心を下さる。
ですからその和賀心がです、いよいよもっともっと本当なものに、もっともっと広く深く頂いていこうとするところにです、いわゆるわからない事がいっぱい出てくるのです。わからない事ばっかり、それがひとつひとつわからして頂く時の喜び、それがひとつひとつ心の中に開けていく時の喜び、もうそれは何とも言えん有難い。
私は合楽に皆さんが御神縁を頂かれて、おかげを受けるという事はです、本気で和賀心になりたいというところに焦点を置いてです、一心に和賀心にならせて頂く信心にならせて頂いて、その和賀心を求めていく。そこにはわからんものが出てくる。
そのわからんものが日々の信心の稽古によって、少しずつわかっていくところの楽しみ、わかっていく喜び、これがね合楽の独壇場的なものを感じます。
これは私自身が、例えて申しますと桜井先生方がこちらに移り住まれた御夫婦共教師の資格を頂かれた程しの事ですから、やっぱりめぐりの深い方だと思う。これはね信心の熱心になさる人程めぐりが大きいとです。めぐりが大きいからこそ熱心にならにゃおられんのです。ましてや、お道の教師にならにゃんというのですから、私はそう思いますねえ。
先生が大きな教会で何十年間修行された。奥さんも結婚されてから、一緒に修行された。けれどもお取次を頂いて、お取次の働きを感じた事がなかったと言うておられます。御取次という事は、金光教の信心の中心なんですよね。いうならば、お取次を頂いて、こういうふうにおかげ頂いていけるという事をはじめて夫婦の者が体験したと言うておられます。もう、求めても求めてもわからなかった事、どげんに偉い先生の事を聞いてもわからなかった事、ここ三、四日の御理解を頂いて、もう本当にこんなにも大変な事をこんなにも素晴らしく誰にでもわかるように御教導頂くという事がもう有難とうして有難とうしてたまらん。
先日から私は、あんなお初穂をはじめてお取次させて頂いたんですけれども「御教導御礼」と書いてある。そういう素晴らしい御教導を受けておる事の有難さそれが合楽の者はわからんとです当たり前のごと思うてから。あちらこちらの偉い先生方にも随分接してみえられた。大きな教会で十何年間も打ち込んだ修行も出来られた。それで尚且つわからない事ばっかりであった。それが合楽に御縁を頂かれて段々わかられるようになられた。こちらへみえて、まあ田中さんのお世話で便所やら、風呂やら炊事場を改造されて引っ越してこられた。
ところがね、こちらへ来てからピタッと仕事が止まった。普通ならね、これは合楽へ来るとが方角が悪かったっじゃなかろうか、神様の御神意にかなわんじゃったつじゃなかろうかというところでしょうねえ。もし信心がなかったら。それでもまあ、いよいよ朝に晩に夫婦で熱心な信心になられてます。
昨日、一昨日、いわゆる素晴らしい御教導を頂いて、神様にお礼を申さして頂きよりましたら、有難とうして有難とうして、それこそ嬉しゅうして嬉しゅうして泣かずにはおられない程しの感動が湧いてきた。
丁度前の日から、長男の武志君が筋肉痛かなんかで、もう晩やすません程に痛い痛いというて泣いた。それでやすんどった。ところがお母さんがあんまり泣きござるもんですから、びっくりしたわけですねえ。それで子供心に具合が悪いと思うてから、教会にお願いに行こうと思うてから、起きてやって来た。
ところが丁度田中さんが参られたもんじゃから、おばしゃまに、お母さんがこうやって泣きよると言うたんでしょう。
田中さんもびっくりしてから、ねえごつじゃろうかと思うて行った、ところが有難とうして有難とうして泣きござった。そして昨日、夫婦でここに出て来てから言われる事ですよ。本当に有難い御教導を頂いて、このような有難い事はないがです、有難い事にならせて頂いてきたらです、例えば、生活不安がさらさらなくなったということを言うておられます。もう行くところどんなところを通られてもです有難く受けていけるという、いうなら確信のようなものができてきた。私は信心の素晴らしいところはそこだと思うのですよ。和賀心の効用なんですいうならば。
暑いところに暑さを感じん、寒いところに寒さを感じん、感じんだけではない、もう有難とうして有難とうして私のそんなら引き揚げて帰って来て信心に燃えてあった時の状態。こういう難儀な中にこういう苦しい中にです、ほんなこて大坪さん有難かっですかと人から問われる位にあったですもん。それがです、本当の教導を受けさせて頂く、それを行じさせて頂くとこすから、そのいうならば、どういう例えば難儀なら難儀でもやって来るならやって来いという。それこそ、只、人でも鉄砲でももって来いというような度胸が出来たというのです。合楽の方に近づかせて頂いて、そしてお仕事の方がどうこうというのなら、もうそれこそままよというどん腹が出来てきた夫婦の者に。素晴らしいでしょう。私は信心の有難さというのはそこだと。どんなに素晴らしい教導を受けましてもです、それがです、只、詳しくなるだけではいけません。それが本気で行じられなければ、和賀心は頂けんのだと。和賀心さえ頂けば願わんでもおかげは伴うて来るのだ。その伴うて来るそのおかげがまず心の上に表れるのだと。
普通でいうなら、もうじゅずない、じゅずないという中にじゅずないどころではない有難とうして感泣しなければおられない程しのです、有難いおかげが心の中に頂けてくる。その心の上に表れてくるのがおかげなのです。それを今の合楽であら頂けるという事です。
私自身もわからない事ばっかり、いやわからない事はもう、いよいよもうそれこそ多くなってきた。けれどもそれがひとつ、ひとつわからせられる喜びというのもは、もう何にも替えられない。しかもそのわからせて頂く喜びというものがです、和賀心をいよいよ本格的な広められた深められたものに、そこからゆめじもつきぬ有難いかぎりないおかげがそこに約束されていよいよ有難い事になってくる。
ですからね、これだけはもう絶対のもの。これはいわゆる和賀心におかげがあるという事なんです。
そこでそんなら、和賀心になる為のいわば御教導を,日々頂いているんだと、その和賀心になる御教導を頂いておっても、それが行じられなかったら和賀心は生まれて参りません。それこそ有難涙にむせべる程しの有難いというものがです、そんならどこから生まれてくるかというと、教祖の神様の事になりますなら、いわゆる教祖の神様の実意丁寧な生きられ方。そこから教祖様は期せずして和らぎ喜ぶ心、いわゆる、此方の道は有難い有難いで開けた道だからとおっしゃる。
そんなら教祖の神様はどうしてそういう有難い方になられただろうか。只、有難とうならして下さいと願ったばっかりじゃなくてです、教祖自身の生き方がです、実意丁寧を極められた。しかも神信心であっという事。それがいつも自分の心の中に喜びがおくられた。その喜びに喜んで開けた道なのですから。
私共が御教導を頂いた、その御教導を頂いた事を実意丁寧に、私共が生活の全面にそれをあらわしていこうという生き方。
表さなくてもわがままでも横着でもおかげが受けられるというところに、ちょっと困った事なんですけれどもね。やっぱ頂ける。私共過去何十年の信心がそうであった そしてはじめて本当の信心を頂こうともう本気で、その親にその親にと思いが期せずして神様に交うた。それに頂けたのが喜びの心であった。
ああいう難儀な中にどこから喜びが湧くだろうかと思う位に確かに湧いた。それはやはり神様が与えておって下さった心であった。
どうぞ和賀心にならせて下さいというて和賀心になれるもんじゃない。神様に本当にお喜び頂けれる、いうなら実意丁寧の生き方、又は神様のお喜び頂けれるというところに焦点を置いての信心修行。そこから期せずして和らぎ喜ぶ心が頂かれる。
しかもこれだけわかったからという事はない。もうわからん事はもう、それこそ雲か霞かというごとある。もういよいよそれこそ雲のように湧いてくる。分からない事は。わかればわかる程そうなんです。けれどもそれが少しずつわからして頂く。
いわゆる信心の世界が広くなっていくという事をです有難いと心得させて貰うて、これは絶対のもの、和賀心になる事の精進さえしていけば、おかげが受けられるという。これは絶対のものなのだから、絶対なものと頂けるところまでいかんとです信心に本気で修行が出来ません。
そげんせんでん、参りゃ参るがたおかげ頂く。お取次を頂けば和賀心にならんでもお願いすりゃやっぱおかげ頂く。
もう、そういう事がですね。合楽の場合は長く続く事は許されない。なぜって、これだけの教導頂いているのだから私どんが場合、もう仕方がなかったんです。そげなものに触れられなかったんだもの。
桜井先生じゃないけれども、そんな事聞いた事もなかったです。だから金光教の御教えというものは簡単な事で、只覚えるだけならすぐ覚えられる。えらい簡単なお粗末なような感じだったんです。
それがどうして、どうして、もう頂けば頂くほどおそらく私が一生かかっても説き明かせないだろうと思う程しの深さを最近感ておるです。
これだけは間違いはないというものが、まだいろいろありましょうけれども、これは絶対というて、いうならばです、和賀心になるという事に精進させて頂いたらです必ずおかげが受けられる。その為には高山さんの例をとりました。こと神様のことならば、それこそ自分の身に持っておる真心の全てをです一心の真を捧げてかからして頂くという事になったら、嬉しゅうて嬉しゅうてというような心が開けてくる。
その嬉しゅうて嬉しゅうてというような心には、親先生もう、次々と嬉しい事が続きますというようなおかげになってくるところのところを見習わしてもらわにゃならん。そして桜井先生の例を申しますなら、そういう喜びというものは、どういうたとえば難儀でもそれこそ矢でも鉄砲でも持って来いというような度胸が出来る。
これは素晴らしい、限りない信心を進めていく為にはやはりそこんところの信心度胸も又、出来なければならんと思うですね。
どうぞ。